菅総理の浜岡原発運転中止要請

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菅総理大臣が静岡県御前崎の浜岡原発の中止を要請したのは、8日のことである。それ以後賛否両論がメディアを賑わせていた。

本日中国電力が、総理の要請を受けて中止の決断をした。

総理の発表が唐突で、決断に至るプロセスが開示されないと批判する人。総理の決断を評価するものの、その他の原発に対する判断基準が示されないと不安を覗かせる人など。

これらは、当事者能力ないことを示す事例ではないか。施政者の発表に批評はできても自らが方針や方策を示すことができないことを認めているようなものではないか。

ましてや総理の要請が、菅総理の人気取りのためだと論じるメディアは、メディアの責任を放棄しているといわれても仕方がない無能ぶりを露呈しているといえる。

浜岡原発は30年以内に東海大地震が予測されている東海活断層上に建造された原発である。

その特殊性から地震に対する懸念が議論されてきた。

それを行政や司法が、ことごとく排除してきた経緯がある。

今回、東京電力の福島原発が東日本大震災で破壊され、放射線被害が広がってしまった。

この予測をはるかに超えた未曾有の震災を受けて、既存原発の再評価を行うのは当然である。

その上で懸念がある原発を止めるというのは、至極当然の処置であると考える。

この処置をせずに、もしも災害が発生し、原発被害が出た時は、もはや自然災害とは言えず人災そのものになる。

この視点(立ち位置)が重要だと考える。

このことを考えずに、原発を中止した時の経済への影響や地域への影響を盾に反対する人々は、従来の立ち位置で物事を考えている。

菅総理の決断は、物事を考える立ち位置を変えているのである。

したがって従来の立ち位置で論評する人たちは、人災になりえる危険性について論を展開する必要が生じているのである。

この意味で、大震災を受け立ち位置を見なおした菅総理の決断は、見事な采配であったといえる事例であると思う。